懐うこと夢のごとくに(内野剣山) 1985/10/20
三曲協会とは何の曲芸をするかね?(内野剣山) 1985/10/20
過去表彰者
「調布市制30周年記念 市民文化祭30年の歩み」 1985(昭和60)年10月20日発行 12-13頁より転載
懐うこと夢のごとくに
調布三曲協会
内野剣山
文化祭が始まって三〇年という歳月を知らされて、今更ながらびっくりしてしまいました。
調布駅前に公民館が建設されるというころ、私の主宰する調布市青少年剣友会(当初は町)という剣道団体が三多摩地区で大活躍(隣接三鷹市大会など数地区で「強過ぎる」という理由で出場参加を拒否されたり)し、東京都優良団体として都知事より表彰され、大会も常勝の実績を残していました。当然、公民館内での練習を心待ちに市内常性寺境内で毎夕練習を重ねておりました。公民館落成と同時に使用申請をしましたが、施設破損の恐れありと簡単に不許可となりました。それならばと玄関前広場を数か月間利用したものです。二月の寒い夕方、足袋や靴・素足も混じっての練習中、故人となられた吉田亮教育長の目に運よくとまり、その日から週一回ホールを即時使用できることになりました。一事が万事の時代でした。
数年後私自身の成人式を機に有志数名を得て、「調布市三曲音楽協会」(現調布三曲協会)結成のため、市内の三曲教授家を一人一人訪れ説得し賛同を得て、ようやく創立第一回記念演奏会を昭和三十八年六月公民館ホールで開催しました。幸運なことに私の恩師、故磯野茶山初代会長(二〇年間在位)が日本三曲協会役員という立場と三曲界に名実共に立派な方であったお陰で、諸事円満に運営することができ、それが今日の発展に継承されました。今では二〇周年を機に「調布三曲協会」と改称し、木藤きみ子現会長を中心に、優秀な教授陣が一丸となって市内各地で、三曲音楽普及のために熱心に指導を続けています。
創立後間もなくのこと、調布市文化会の某氏から入会を進められ、私は初めて会合に出席し、入室と同時にびっくりしてしまいました。出席者のほとんどが小、中学時代の恩師ばかりだったからです。親子、祖父ほどの年の差も離れた高齢教育者ばかりでした。今は亡き本多市長・吉田教育長それに絵画協会の水谷・原各先生方のほかに現、退職教員が数名おり、まさに腰が抜けんばかりの体験をしました。未だにその日のことを忘れることができません。ただ一人剣道の指導をしたことのある知人の写真家藤田氏がいたことが少々救いでした。もちろんその時の内容は一切覚えもなく、発言すら私の記憶に残っていません。まるで職員室に呼ばれてジロジロ見られているような雰囲気の中、自己紹介だけを済ました……。これもおぼろげ程度ですが、その中にあっていっそう三曲の普及に遙進すべき思いに燃えたものです。
当時の私は体育指導員やら青少年対策委員とか公明選挙推進委員とか、あれこれ兼任していました。ほとんどの会合にそれぞれ何名かの方々が重複して活躍しておられたため、見覚えのある方々がいつも一緒でしたが、場馴れていたはずの私も特異なムードに、未だ私の脳裏から当時の「文化協会」の存在が離れません。
そのころ「市民の文化向上」とか「文化都市」とかの宣言をするなど、種々熱心に討議したものです。今思うに、市当局が「調布町」と「神代町」とを合併して「調布市」となったばかりで、町民から市民への意識の向上を図るに知識人たちは懸命だった感じです。何かにつけ三鷹市や武蔵野市を意識しての発言、背伸び運動に情熱を燃やし「東洋のハリウッド」として三多摩地区のリーダーシップを取るべく苦心惨憺していました。そんな気運の中で血気盛んだった私も、若輩ながらも息せき切って走り回った覚えがあります。歳月の無限の力を得て現実的に育成されていることを垣間見ると、真の文化の偉大さとすばらしさを思い知らされ、一入(ひとしお)、感慨を覚えずに居られません。なおまだまだ文化道の極地ははるか彼方ではありますが、市民の方々とより広く輪を広めるべく、共に力を携えて喜びをわかち合って行きたいと念じてやみません。
「調布市制30周年記念 市民文化祭30年の歩み」1985(昭和60)年10月20日発行 49頁より転載
三曲協会とは何の曲芸をするかね?
調布三曲協会
当市教育委員会のご支援のもとに、調布三曲協会を創りました(初代会長・故磯野茶山氏)。日本の伝統音楽を現代に正しく継承し、広く一般市民に理解と普及を求めて、市内に在住・在勤する、箏曲・三絃・尺八の各界の専門家によって構成され、それぞれの分野のもとに、広範囲にわたって活動しています。
「三曲協会」は、(尺八)故磯野茶山・故前田茶青、(箏・三絃)伊東弥生・木藤きみ子(現会長)・嶋田香苗(理事)の六名が中心となって結成が準備され、六か月後に第一回演奏会を開催すべく、何回となく会合を重ねた。ことに伊東弥生女史の情熱的な行動が各人の心をとらえ、各方面の協力をも得て、スムースに結成されるに至りました。その間、市内に教授所を持つ各流各派の師匠宅に趣意書を持って、入会を要請しましたが、半数近くの教授家に断られ、「門外不出のため」との理由で一蹴された方もありました。また、創立にあたり、教育委員会に伊東弥生・内野剣山が趣意書と後援願を持って訪れたところ、当時の教育長、故吉田亮氏に「三曲協会とは何の曲芸をするのかね?」といわれ、二人とも呆然となったのです。そこで、新たに考えた末、結局一般市民の方々からも同様な誤解を招かぬため「三曲協会」を「三曲音楽協会」と“音楽”の二字を入れることとしました。
昭和五十八年二月二十日創立二十周年記念演奏会を機に、再び当初結成時の「三曲協会」と呼称を改め今日に至っています。なお、結成時の会員は、尺八三名、箏曲二名の合計一四名でスタートし、現在は二六名と約二倍となっています。毎年、市民文化祭に参加し、福祉センター内において、邦楽(日本音楽)を有志により慰問演奏をしています。今後、こうした活動も積極的に事業の一環として参加していくつもりです。
昭和四十年十月二十六日、市制施行十周年記念文化祭、初参加による「三曲音楽演奏会」を開催、以来、今日まで二〇年間にわたり、市民文化祭参加に積極的に協力し、演奏会を継続、開催しています。その年の十二月、市民文化祭行事の「反省会兼慰労会」に初代会長磯野茶山、オブザーバー役内野剣山が出席しました。
昭和四十一年四月、調布市文化協会発足に伴い、当協会も即日入会しました。そして、同年六月五日の第四回「調布三曲演奏会」には、市教育委員会と市文化協会とが後援となりました。翌年第五回「調布三曲演奏会」から、それまでの年二回の演奏会を「市民文化祭参加演奏会」に重点を置き、再び年一回公演としました。
ところで、聴衆は延数にして会員および出演者等を含め、八〇〇~一、○○○近くに達するほど、年々、盛会になって来ています。その他、結成時より五年に一度ずつ公民館および旧市長室・新福祉会館センター等に時計・姿見・禁煙灯一対・上敷ゴザ等を寄贈しています。
なお、市内に在住・在勤者の方で、三曲の教授資格を持つ市民の方々には、入会されることを心より歓迎いたします。
(内野剣山)
- S62.2.22記(三曲協会だより No.2)
文化協会発足 20周年(S61.11.3)
内野剣山氏:役員経験15年以上の方たちより - 1987(S62).4.7記(ノート)
S62.5.17記(三曲協会だより No.4)
S62.10.22記(三曲協会だより No.6)
三曲協会20周年
山下(繁雄)氏 賞状・記念品
(17年 佐藤(吉和)氏、村岡) - 2001(H13) 7.17記(ノート)
文化協会35周年 感謝状
中西氏(三曲推薦)